脳梗塞からの復帰

入院14日目 リハビリ開始

夕方4時のテレビ。
ちちんぷいぷいにいつも出てくる角さんが出てこない。
代わりに若手の西アナウンサーがいつも角さんが立っている場所で画面を読み上げていた。

「今日角さんおらへんなぁ」
「体調崩したんちゃう?」
「状態悪いんやろうか」
「そうそう、今日叔母さんしんどそうやったから、早めに病院行って変わってあげて」
「歯が痛いん?」
「そうみたい」

外に出ると、霧がかっていた。
雨の落ちる音が聞こえたから傘を差したが雨粒が降ってこない。

「今日ちょっと尿が多いみたいやねん」
ベッドの脇にかかっているビニールバッグを見ると確かにたくさん溜まっていた。
今日は腹の具合はいいみたいだ。
叔母がいない間にリハビリの先生がやってきた。
眼鏡をかけていて、愛想がいい。

「今日は調子はどうですか?大丈夫ですか?」
優しく声をかけ、父は少し笑顔になる。
動かない方の右腕をゆっくりと曲げて、頭の辺りまで上げる。
膝を立てて足を揉んだりする。
「じゃあ少し座ってみましょうか」
リハビリの先生に抱きかかえられ、ベッドに座る。
窓の外の景色を見る。8階からの眺めはすがすがしい。
「今日はちょっと天気が悪いですねー」

父がベッドに座っている姿を横で見ていると、目にじわっと来た。やっと座れるようになったという喜びと、以前の元気な時の父の表情はもう見れないという淋しさが交錯する。

父はお構いなくぼーっと外の景色を眺めている。山に、ビルに、住宅の屋根が西の端まで延々と続いている。上体を前にゆらっと突き出した。今にも立って歩き出しそうだった。

「関節も柔らかいですし、ええ、だいぶ状態もいいみたいですねえ。ええさっきも歩き出しそうでしたよねー」
リハビリの先生が愛想良く話しかけてくる。
「じゃあ今度は車椅子に乗ってみましょうか」

看護婦が車椅子を持ってきた。父を抱きかかえて、車椅子に座らせる。尿の入っている頑丈なビニールバックを車椅子の背に入れ、戻ってきた叔母が点滴のかかっているスチール棒を持ち、僕が柄を握る。

「どこ行く?散歩がいい?それともテレビ見よか」
父が首をせわしなく振るので、どうしたいのか分からない。立て続けに質問され父もどうしたいのか惑っているのかもしれない。テレビ?と訊くと首を縦に振った。

いつも僕がジュースを飲んでいる休憩室まで車椅子を押していった。
年配の看護婦が「あら、お散歩?」とやって来て、「これちょっと引っ張りすぎかな」と点滴のチューブの間隔を整えた。休憩室の壁際のソファにふたりのお年寄りが座っていた。

「前すみませーん」と叔母が言いながら僕は無言で父を特等席まで押していく。隣のテーブルで雑談していた老夫婦が医師に呼ばれ消えた。テレビには火曜サスペンス劇場の再放送が映っている。相撲、芸能ニュースとチャンネルを変えていき、夕方の情報番組をつける。

暗いニュースだったので変えようと思ったが、あんまりパチパチ変えるのも疲れるかもと思いつけっぱなしにしていた。父は真剣な表情でテレビを見ている。その間僕はジュースを飲みながらテレビを見、叔母は壁際のお年寄りのおばあさんと打ち解けて何か話していた。

「ここでご飯食べよか」と叔母が訊くと首を横に振る。
「テレビは?」もういいと首を振るので、フロアを散歩することになった。

廊下の端まで行く途中で、姪と同じ名前の女の子のいた病室が見えた。ちらっと見えただけだ。ベッドで眠っている。3人で窓の外を見る。 「あそこがC市役所やで」 父は首を横に突き出す。空は曇っている。

フロアを一周して、病室に戻った。看護婦がやってきて、父をベッドに戻す。

廊下に車椅子を置くと、若い看護婦が、「あ、いいですよ。やっておきますので」と言ったので、消毒液を手に塗り込んで病室内に戻った。

今日の夕食は重湯と味噌汁。それに健康ジュースと銘打ったオレンジジュースだった。医療用のジュースらしい。医師の指示に従って飲んでくださいと細かい字で注意書きが書いてある。夕食後は歯を磨いて、錠剤を飲んで、寝た。

7時15分頃に、そろそろ帰るよ、と言ったら、あ、そう、、分かった、と余裕綽々に頷き、指で鍵を作って自分の頭を差した。
「何?ベッド?おろすの?」 首を横に振る。 「あげるの?」 うん、うん、と首を振った。

どうやらベッドを下げすぎたらしい。少し上に上げる。
父がストップストップと手を挙げる。
また指を鍵にして何かを示す。
「ああ、窓閉めて欲しいの?ブラインドね?」 軽く頷く。

指を鍵にしたときが一番緊張する。
また何を言ってるのか分からなくて苛つかれたらこっちまでしんどくなる。

ブラインドを半分閉め、じゃあお大事に、と言って病室を後にした。